【渋沢栄一】新紙幣の人物ってどんな人たち?

2024年から、各種の紙幣デザインが刷新される予定です。

でも正直なところこの新紙幣の人物について、『偉人なんだろうけど具体的に何した人か知らない』って方が多いんじゃないでしょうか。そこで今日はこれらの人たちがどんな人なのか徹底的に調べてみました。

本稿では一万円札になる渋沢栄一しぶさわえいいちからご紹介します。

日本の紙幣は過去、1984年に1万円札が聖徳太子から福沢諭吉に、2004年に5000円札が新渡戸稲造から樋口一葉、1000円札が夏目漱石から野口英世にと変遷して来ましたが、全ての紙幣を一気に刷新するというのはなかなか珍しいことです。

新しい1万円札には『日本資本主義の父』と呼ばれる渋沢栄一。
5000円札には『女子教育の先駆者』と評される津田梅子。
1000円札の肖像画には『近代日本医学の父』と言われる北里柴三郎がデザインされます。

百姓の子として生まれる

渋沢栄一は近代的なスーツを着た写真がプリントされていますが、なんと生まれは1840年。バリバリ徳川幕府が活躍してた頃の江戸時代の生まれです。今でいう埼玉県深谷市で生を受けました。実家は養蚕業なども営む農家。つまり渋沢栄一は農民の子でした。

農家と言っても貧乏していたワケではなく、栄一の父はとても商才のある人で、地元ではお金持ちで有名な豪農でした。栄一は父から英才教育を受け剣術も嗜んで暮らしていたのですが、17歳の時に転機が訪れます。それは大名家への献金を要請され、父の代理として先方に赴いた時のお話。

当時の大名家は娘の嫁入りや息子の元服(成人すること)があるとお祝い金として、半ば強制的に地元の商人たちからお金を集めるというのが通例になっていました。

代官:おい渋沢よ、今度大名家でお祝いごとがあるから500両貢いでくれや

栄一:500両(約1500万)ですか…家帰ってお父さんと相談して来ます!

代官:あのさぁ、君もう17歳でしょ?女買ったりもする年頃でしょ?500両くらい親に聞いて来るとか情けないこと言わないでこの場で承知しなさいよ。

栄一:でも勝手に承知すると父に叱られますので!

代官:いやぁ訳が分からん。つまらん男じゃのうお前はw(全ギレ

栄一:すいません…。(なんだこいつやべぇ)

『雨夜譚』という栄一の自伝によると、代官は『なかなか如才ない人で、そのうえ人を軽蔑するような風の人』と評されており、この時の帰り道で栄一は徳川政治の限界を感じると共に、"虫けらども"から搾取されるだけの百姓という身分に疑問を持ち、武士になって成り上がることを目標にしたそうです。

─── その頃の事業家は一途に百姓町人と卑下されて、世の中からはほとんど人間以下の取り扱いを受け、いわゆる歯牙にも掛けられぬという有様であった。しかして、家柄というものが無闇に重んぜられ、武門に生まれさえすれば智能ちのうのない人間でも、社会の上位を占めてほしいままに権勢を張ることができたのであるが、余はそもそも、これが甚だ癪に障り、同じく人間と生まれ出た甲斐には、何が何でも武士にならなくては駄目であると考えた。その頃、余は少しく漢学を修めていたのであったが、『日本外史』など読むにつけ、政権が朝廷から武門に移った経路をつまびらかにするようになってからは、そこに慷慨こうがいの気というような分子も生じて、百姓町人として終わるのが如何にも情なく感ぜられ、いよいよ武士になろうという念を一層強めた。しかしてその目的も、武士になってみたいというくらいの単純のものではなかった。武士となると同時に、当時の政体をどうにか動かすことはできないものであろうか。

引用元:栄一の訓話集『論語と算盤』

尊王攘夷派の志士となる

それから5年の時が経ち22歳になった時、栄一は反発する父を説き伏せて江戸に出る機会を得ます。現代でいうところの上京ですね。江戸では儒学者の門下生になる傍ら、坂本龍馬や山南敬助も学んだ北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうの道場で剣術を磨きました。この時、門下生たちの影響で尊王攘夷そんのうじょういの思想に目覚めたそうです。尊王攘夷ってのはザックリ言うと『天皇を守って外国人を倒そう!』という考えのことです。高杉晋作なんかが同じ思想で有名ですね。

そして24歳の頃になると、すっかり過激派のお友達が多くなった栄一は仲間と一緒に『横浜へ繰り出して外国人を片っ端から殺して回ろうぜ!』というトンでもない計画を実行しようとします。しかしその矢先、同じ尊王攘夷派が『天誅てんちゅう組の変』という似たような襲撃テロ事件を起こしますがコレが大失敗。栄一たちは先人たちの失敗を踏まえ、今の自分たちに計画を実行する力量がないと考えた末、計画を断念します。

でも中途半端に横浜襲撃の為の武器などを買い集めてしまった後だったので、アシがついて幕府に追及・処刑されることを恐れた栄一は、以前から親交のあった徳川家支流である一橋ひとつばし家を頼って仲間と一緒に京都へ身を隠します。そして、そこで一橋家から『君たちは国の為に尽くそうという気概があるが、身分が農民というのが不憫でならない。もし良かったらウチに仕官して武士にならないか』と打診されます。それを受けた栄一はやっと夢であった武士の身分に昇格するのです。

幕末時代の渋沢栄一。

栄一、世界の広さに触れる

武士に昇格した栄一は仕えていた一橋慶喜が征夷大将軍を継ぎ徳川慶喜とくがわよしのぶとなったことで、奇しくも徳川家の幕臣となります。農民の出から考えると大した出世です。栄一はこの時から、農兵の招集などで少しづつ商売の才能を開花させていました。

この時点で栄一は27歳になっていましたが、ここでもまた彼の人生を変える転機が訪れます。1867年、フランスで開催された万国博覧会に上司のおトモとして出席したのです。そこで彼は通訳として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトから語学や諸外国の事情を学び、初めて世界の広さを知ったそうです。

同時にこの頃、日本では大政奉還たいせいほうかんが行われ、徳川の世が終わりを告げて政権が天皇に返還されました。明治時代の始まりです。帰国した栄一はもはや君主と仰ぐ必要のなくなった慶喜に「お前はお前の道を行きなさい」と言われ、自分なりに国に尽くそうと考えます。彼はフランスで学んだ株式会社の仕組みや商法会所を導入し、新政府の借金返済に奔走。様々な苦労がついて回りましたが栄一の才覚は留まるところを知らず、国立銀行条約の制定などに関わり、あっという間に大蔵省のトップに上り詰めました。

大蔵省内には「幕府を倒したぞ」と自慢する腕自慢の荒くれ者が勢ぞろい。煙草を吸ってお茶を飲みながら、ただ議論したり、かつての手柄を誇ったりするばかりで、これでは改革どころではない。

渋沢は人材について、次のような言葉を遺している。

「新しき時代には新しき人物を養成して、新しき事物を処理せねばならない」

渋沢はこのとき、のちに「日本郵便制度の父」と呼ばれる前島密や、「日本造船の父」と呼ばれる赤松則良らを改正掛に登用している。

「この局の人員は全部で十二、三人となりました。そのうち各自に得意の分野もあって、執務も自然とはかどってきて、とても愉快でした」

そう振り返る渋沢は意欲満々に、3日も4日も徹夜しながら、全国測量を企画し、租税の改正を推進した。明治4(1871)年からは、大蔵卿には大久保利通、大輔には井上馨が就任。渋沢は大蔵大丞という役職が与えられ、さらに辣腕を振るうことになった。

だが、改革には軋轢がつきものだ。愉快とばかりいっていられない事態がときに巻き起こる。

「あなたはハイカラな真似ばかりして、伝票などというこうるさいものを書かせるが、一体あれは何のためだ。手数がかかるばかりで始末におえん。従来の記帳で結構じゃないか!」

大蔵省内で出納正を務める得能良介が、渋沢にいきなりそう食ってかかった。物議をかもしているのは、新たに大蔵省で導入された「アメリカ式会計法」だ。

もともとは、伊藤博文がアメリカから持ち帰ったもので、その合理性に感心した渋沢が井上に提案。金銭の出納にも伝票を使用することになった。

もちろん最初は慣れない作業なので、現場はどうしても混乱する。それに腹を立てた得能が「あんな面倒なことをやるから間違いが起こる!」と激怒。渋沢も負けずに「よくそれで出納正が務まりますな」と応戦すると、頭に血が上った得能から突き飛ばされてしまい、渋沢はこう言った。

「ここは役所ですよ。役所の事務について意見を言うなら口があるはずだ。腕力沙汰は大人気ない!」

この騒ぎで処分を受けて、ポストから外されてしまった得能。渋沢も気の毒に思ってかばったが、さすがに暴力はまずかった。

現在では、簿記で帳簿をつけるのは当然のことだが、それを定着させるまでには、並々ならぬ苦労があったのである。

引用元:東洋経済

大蔵省辞任、実業家へ

栄一はその後、東京で大火事があったことを受けて都心の再建計画を主導。従来の木造建築から脱して外国を真似たレンガ造りの街並みを作ろうと計画します。しかし予算を巡って大久保利通や大隈重信と対立してしまい、大蔵省を辞任することになります。

栄一はこの頃42歳になっていましたが、今度は役人ではなく実業者として第二の人生をスタートします。彼は仲良しになっていたシーボルトの協力を得て第一勧銀、現代でいうみずほ銀行の設立を行い頭取に就任。これは日本で初めての銀行設立となります。余談ですが『BANK』を『銀行』と最初に訳したのも栄一です。

そこから栄一は更に、今日の日本を創った数々の会社を積極的に創設します。時には直接陣頭に立って経営し、時には資金を提供して支援しました。栄一がいなければ存在しなかったであろう企業は多岐に渡ります。

企業名現在の名前
王子製紙日本製紙
瓦斯掛東京ガス
石川島平野造船所いすゞ自動車
秀英舎大日本印刷
王子製紙日本製紙
中外物価新報日本経済新聞
東京海上保険会社東京海上日動火災保険
日本鉄道会社JR東日本
京阪電気鉄道京阪ホールディングス
共同運輸会社日本郵船
東京電灯会社東京電力
大阪紡績会社東洋紡
浅野セメント工場太平洋セメント
ジャパンブリュワリーキリンホールディングス
札幌麦酒サッポロビール
清水組清水建設
日本土木会社大成建設
東京人造肥料会社日産化学
東京製綱会社東京製綱
汽車製造川崎重工業
熊谷銀行りそな銀行
東京ホテル帝国ホテル
足尾鉱山組合富士通
帝国劇場東宝
渋沢栄一が創設に関わった企業の一覧。

いかがでしょうか。いずれの企業も超有名な一流企業ばかりですね。これら全ての創設に栄一が何らかの形で関わっていると考えると、まさに『今の日本を創った』と言っても過言ではないでしょう。

栄一はこれらの他にも生活困窮者の救済事業や教育機関の設置に尽力。時には東京大学で自ら教鞭をとり、学生たちに経済を教えました。更にいち早く女子への高等教育の必要性に気づき、まだまだ男尊女卑が当たり前の世情の中、東京女学館と日本女子大学を創設したのも栄一です。

また外交問題に力を入れて日本のニュースをアメリカに伝える仕組みを設置したり、都市計画(田園調布)を行ったり、日本赤十字社の設立を行ったり、関東大震災後の復興を担ったり…。全て書くとキリがないほどです。

アメリカにも渡った渋沢栄一。

ドラッカーによる評価

いかがでしょうか。1つや2つで十分"偉人"と呼ばれるような業績を100や200もこなしたのが渋沢栄一という人物なのです。彼は1931年、92歳まで活躍し大腸狭窄症により世を去りましたが、『マネジメント』で有名なドラッカーは彼をこのように評価しています。

「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、国外では、わずかの日本研究家が知るだけである。しかしながら彼らの偉業は、ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ。
(中略)岩崎と渋沢は、たんなる豊かな日本ではなく、創造力のある強い日本をつくろうとした。いずれも、経済発展の本質は、貧しい人たちを豊かにすることではなく、貧しい人たちの生産性を高めることであることを知っていた。そのためには、生産要素の生産性を高めなければならなかった。資金と人材の力を存分に発揮させなければならなかった」

引用元:『断絶の時代』

徳川幕府の未来を憂慮しながらも最後の将軍に仕え、元攘夷派でありながらアメリカ式の経済を日本に取り入れた渋沢栄一。数奇な運命ですね。彼の凄いところは思想や主義に囚われず、良いところはどんどん学び、貪欲に知識を吸収しながらも、祖国の為に誠心誠意尽くすという幕末志士の原点を貫いたところだと思います。そんな渋沢栄一を主人公にした大河ドラマ『晴天を衝く』もNHKで絶賛放映中なので、気になった人は是非見てみて下さい。

次回は津田梅子を紹介するよ!