山であった怖い話(ノンフィクション/実話のみ)
登山は冒険心に溢れ楽しいものですが、時として一瞬で絶望をもたらすことがあります。
個人的に心霊系はあんまり怖くないので、実話(または確証がないが実話とされるもの)だけ集めてみました。
八甲田雪中行軍遭難事件
経緯
1902年、まだ日本が明治だった頃。
日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊は、ロシアとの戦争を想定し寒冷地での訓練を課題としていた。
そこで連隊は、『もしロシアに列車を破壊されても人力で物資の輸送が可能か』をテストする為に、あえて厳寒期の1月を選び、青森の八甲田山で一泊二日、片道20キロの雪中行軍を実施することになる。
人数は210名。一日分の食料や工具、大釜などを満載した80キロのソリを14台引っ張っての登山。
服装は、准士官以上は長靴に冬用の軍服、それに毛糸のコート。下士官は短靴を履き平時の軍服を着て、コート2枚を渡されただけであった。当時はまだゴム製品もロクに流通していなかった時代であるが、それでもかなり軽装である。
遭難
1月23日午前6時55分に登山を開始。
地元の住民が『あそこは白い地獄だ』と止めるのも聞かず、指揮官の神成大尉以下210名は八甲田山へ向かう。『どうしても行くのなら』と住民が先導役を申し出るも拒否。慢心していたのである。
初日、午前中までは大きな問題もなく進軍出来たが、ソリ隊が遅れた為に速度が落ち、おまけに暴風雨の気配も出て来た。大尉は引き返す意向を示したが部下の反対に遭い、計画を続行してしまう。
午後8時、予定よりだいぶ遅れた地点で野営の準備を開始。とはいってもテントや寝袋の装備はなく、雪に穴を掘って40人づつに分かれてゴロ寝である。昔の兵隊さんとはいえワイルド過ぎる。
当時はライターもない時代。火打石で吹雪の中火を起こすのは難航を極め、午前1時になってようやく食事が支給された。
2日目は午前5時から出発予定だったが、八甲田山の夜は気温マイナス20度。睡眠がほとんど取れず凍傷になる恐れが高いと判断し、一行は午前2時に引き返すことを決定する。
しかし疲労困憊な上に地図とコンパスしか持っていない一行は、道を誤り駒込川に降りてしまう。野営地へ戻ろうにも吹雪で足跡が消されてしまい、完全に遭難した。
士気の低下と強まる暴風雨により、いよいよ卒倒する者が出始めた。安全な場所を求めて右往左往するうち、4分の1の隊員が凍死した。
ようやく窪みを見つけて2日目の野営地と定めるも、炊飯用の道具はほとんど捨ててしまい、缶詰類も凍結していて食べられなかった。
猛吹雪で体感気温はマイナス50度以下だったとされ、前日からほぼ絶食・不眠状態の隊員らはここで70名近くが死亡したとされる。
その日もろくに睡眠が取れないと判断した一行は、午前3時の時点で下山するべく出発。コンパスは凍結していた為、地図を見ながらカンで進むしかなかった。
やがて、隊員らのSAN値 精神は限界に達し、服を脱ぎ捨てる者、『ここを飛び込めば青森だ!』と叫び川に飛び込む者、指が凍傷でボタンが外せず、失禁して股間が凍結したことが原因で凍死する者など、発狂者と死者が相次いだ。
その後事態は4日目から5日目になり、兼ねてから捜索活動を続けていた救援隊がようやく一行を発見する。この頃にはすでに、生存者は20数名までに減っていた。
指揮官である神成大尉は発見時、クビまで雪に埋まっていた。軍医が気付け薬を腕に注射しようとするも、皮膚が凍り針が刺さらなかった為、口の中に注射した。すると何事かを呟き、そのまま息を引き取ったという。
結末
救援隊によって17名が救出されたが、うち6名はその後死亡。結果的に生存者は11名のみとなった。
その生存者も凍傷により多くが四肢や指の切断を余儀なくされ、五体満足で生還したのは3名に留まった。
遺体の捜索には寒冷地のプロフェッショナルであるアイヌ民族の手を借り、雪に竹を突き刺しながら歩き、手ごたえがあれば掘り返すという手法で行われた。
しかし川に落ちた遺体は捜索が困難で、中には海まで流されたケースもあり、すべての遺体が収容されたのは5月を過ぎてからだった。
ナイロンザイル事件
経緯
1955年、東京製綱株式会社は東洋レーヨン(現在の東レ株式会社)のナイロン糸を加工し、『ナイロンザイル』として販売していた。
ナイロン製のザイル(つまりロープのこと)はそれまで主流だった麻製のザイルに比べ、強度が高くて軽く、しかも凍結しにくいという売り出し文句で、登山者はこぞって買い求めていた。
しかし、ナイロンザイルを使って登山クラブ『三重県岩稜会』に所属する3人の大学生が北アルプス前穂高岳東壁を登攀中、わずか50センチ墜落しただけでザイルが破断し、三重大学1年生の男性が死亡する事件が発生した。
その後、他の登山クラブからもナイロンザイルを利用していたところ、いとも簡単に破断が発生し、怪我をする者が多いという報告があり、死亡した大学生の兄は強度に疑問を持った。
遺族vs企業
兄は旧制名古屋大学の工学部出身で、1トン以上の強度があるとされるナイロンザイルを使った実験を繰り返し、『静過重であれば確かに充分な強度を発揮するが、岩角に張り詰めた状態だと人間の体重程度で簡単に破断する』という事実を突き止め、岩稜会を通じて告発した。
これに反発する形で、東京製綱も山岳関係者や新聞記者を集め、ナイロンザイルの公開強度実験を行う。しかしその実験の際、ザイルの破断は起きなかった。コッソリ岩角に丸みが加えられていた為である。
その結果、『岩稜会は自分たちが未熟なのをザイルのせいにした』という不名誉極まりない記事が山岳雑誌に掲載されてしまう。
更に日本山岳会(登山クラブの親玉みたいなもの)は、『麻製のロープは3メートルの落差で切れるが、ナイロン製なら13メートルまで大丈夫』などと、まるでナイロンザイルをおススメするかのような記事を雑誌に掲載した。
岩稜会は『登山者の命の危険に関わる』として認識を改めるよう、日本山岳会や関係者に訴え続けたが無視されてしまう。その間もナイロンザイルを使用した死傷者は増え続けていた。
結末
1973年、実に最初の事件から約20年後になってようやく岩稜会の主張は認められ、消費生活用製品安全法が制定された際、登山用ロープも対象となった。
これにより明確な安全基準が設けられ、直径8ミリ以下のナイロンザイルは登山用ロープとして認められないこととなる。
日本山岳会は過去の掲載記事について正式に謝罪を行った。この段階に至るまでに、ナイロンザイルを使用した死者は20人以上になっていた。
晴れて弟への花むけが出来た後、兄は高所安全研究所を設立し、ザイルの安全装置の開発、引いては高層ビルからの脱出装置やショックアブソーバーなど、多くの安全用品の発明を行い社会に貢献した。
ディアトロフ峠事件
経緯
1959年1月末、ソビエト連邦(現在のロシア)で起きた事件。
リーダーのイーゴリ・ディアトロフを含む、9人の男女がスキートレッキングを計画し、ウラル山脈のオトルテン山を目指していた。
冬の時期に挑戦するのは難易度の高いルートだが、彼らはみな長距離のスキー旅行や山岳遠征を経験している優秀な登山家であり、反対する者はいなかったという。
しかし、予定していた下山時期になってもディアストロフから何の連絡もなく、不審に思った親族が捜索隊の結成を要請した。その結果、軍や警察を中心にヘリコプターまで動員して、大規模な捜索活動が行われることになった。
不可解な遺体
捜索隊は予定されていたルートではなく、目的地のオトルテン山から10キロほど離れたホラート・シャフイル山(通称・死の山)にて、一行のキャンプ跡を発見した。
恐らく、悪天候による吹雪で道を誤り、迷い込んでしまったのだろうと思われた。パーティの生存は絶望的と見られた。
テントの周囲を捜索すると、ほどなくして5人の遺体が見つかった。それから約2か月を要したものの、残り4人の遺体も無事に発見され、遭難事故として処理されることになった。
しかし、不可解なのはそれぞれの遺体の状況である。
まず最初に見つかった5人の遺体。
彼らはほとんどが薄着で、靴もロクに履いていなかった。つまり、マイナス30度の嵐が吹き荒れる中、何らかのパニックに陥り服を脱いでテントを飛び出したのである。(テントには食料やカメラなど荷物が取り残され、更に内側から切り裂かれた跡があった)
これだけでも充分不気味だが、実はこれは低体温症による矛盾脱衣と呼ばれる現象で、冬山の遭難では『よくあること』である。
問題は2か月遅れで発見された4人の遺体。
彼らのうち1人は頭蓋骨を骨折、別の2人はろっ骨を骨折していた。そして最後の1人に至っては眼球がなく、舌も失っていた。
不思議なのはいずれもハンマーで殴られたり、ナイフで刺されたような外傷がなかった点である。周囲に血痕もなかった。にも拘わらず、身体の内部は致命傷を負っていた。
更に不可解なことに、何人かの衣服からは高い線量の放射能が検出されたのである。
結末
ソビエト連邦は事件からわずか3か月で捜査を打ち切り、『抗いがたい自然の力が原因』というあいまいな調査結果を公表した上、事故現場に一般人が立ち入るのを禁止した。
このような動きが拍車をかけ、まさに"怪死"した9人について様々な憶測が飛び交うことになる。
死亡したリーダーの名前を借りて『ディアストロフ峠事件』と名付けられたこの出来事は、現在に至るまで納得出来るような原因究明はなされていない。
ここでは仮説をいくつか紹介する。
- 雪崩説
→ 大きな雪崩が一行のテントを襲ったという仮説。この説であれば、テントに荷物を残した状態で飛び出したことや、遺体の一部が骨折していたことも説明がつく。しかし、当時テントを発見した警察関係者は一行の足跡を見つけている。もし雪崩だったのならば足跡は残らないはずである。更に、眼球と舌を失っている点や、衣服から高い放射能が検出された部分の説明がつかない。 - 薬物中毒説
→ 現場を調査した担当者のワジムは、遺体の上に切断されたスキーストックを発見している。一体何のためにそんなことをしたのか困惑したという。当時、ソビエト連邦ではドーピング、いわゆる向精神薬が製造されていたことが知られている。ディアストロフらがそれらの薬物を手に入れ、危険な登山に活用を試みた可能性があるという。 - ケンカ説
→ 壮絶なケンカが起きてお互い死亡したという説。法医学者のエドゥアルドによると、腐敗した遺体を解剖しただけで死因を特定するのは大変難しく、外傷がなかったという報告も疑わしいという。また、頭蓋骨やろっ骨の損傷が認められながら、その詳しい原因について説明が発表されないことも不可思議だという。 - 先住民説
→ 当時、事件現場のあたりにはマンシ族という先住民が暮らしていた。一行が意図せず彼らの聖地に踏み込んでしまい、殺害されたのではないかという推測がなされた。しかし、遺体には至近距離で争った形跡がなく、足跡も9人分しか遺されていなかった為、可能性は低いとされている。 - 低周波音説
→ アメリカ海洋大気庁のベダート博士によると、事故現場はドーム状になっており、カルマン渦という気象現象が発生する理想的な環境だったという。これにより一行は強風と化け物の唸り声のような低周波音に晒され、発狂したというもの。 - モンスター説
→ 雪男のようなモンスターが現れて一行を惨殺したという説。それぞれの遺体の怪我は外傷がなく、まるで強い力で締め上げられたかのようだった。人間の腕力では不可能な為、このような説明がなされた。また、ウラル山脈では膨大な数の『雪男目撃談』があるという。 - UFO説
→ 宇宙人にやられたというトンデモ説。事件のあった頃、同じ山で行動していた別グループが『空にオレンジ色の光を見た』と証言しており、更にテントに残されたカメラのフィルムを現像してみたところ、最後の一枚には謎の発光体が撮影されていたという。大分オカルトな説。 - 秘密兵器説
→ 一行のキャンプはバイコヌール宇宙基地とチェルナヤ・グバを結ぶ直線ルートの上にあった。バイコヌール宇宙基地は弾道ミサイルの試験場であり、チェルナヤ・グバは核実験施設である。これらの事実から、何らかの軍事兵器の誤射に巻き込まれたのではないかという推測が立てられた。それならばカメラに残された発光体の写真(ミサイルの発射光だという)や高い放射能について説明がつく。
福岡大ワンゲル部ヒグマ事件
経緯
1970年、福岡大学のワンダーフォーゲル部所属の5名が、北海道の日高山脈カムイエクウチカウシ山でヒグマに襲われた獣害事件。
5人は日高山脈縦走のため、北部の芽室岳から入山し、約10日かけて登山を楽しんだ後、札内川上流に位置する九ノ沢カールでテントを張り休息を取ることにした。
するとやがて、一匹のヒグマがどこからともなく現れパーティに接近。テントの外にあるザックを漁り食料を食べ始めた為、一行はザックを取り返して火を焚き、食器を太鼓のように鳴らして追い払った。
これがいけなかった。
度重なる襲撃
翌日の早朝、再びヒグマが野営地に現れ、テントを荒らし始めた。5名のうち2人が一度離脱し、付近にいた鳥取大学のパーティに救援要請をするよう伝言し、自分たちは元の仲間の場所に戻りテントを補修した。
その後、夕方に再びヒグマが現れた。彼らは身の危険を感じ鳥取大学のメンバーと合流するべく移動したが、他の登山者たちはすでにヒグマ出没の報を受けて退避した後であり、仕方なく夜道を走り続けた。
しかしやがてヒグマに追いつかれ、1人がパニック状態になって八ノ沢カールを駆け降りて行き、その後絶命させられた。更にもう1人も逃げ回る中ではぐれてしまった。
その後、残るメンバーはいつヒグマに襲われるかわからない恐怖の中、ガレ場で一夜を過ごしてから下山を再開した。
だがその日もヒグマが現れ、リーダーだった人物を殺害。最後に残った2人は工事現場へと逃げ込み、そこで車を借りて命からがら脱出した。
報告を受けて帯広警察署や猟友会はヒグマ討伐隊を結成。翌日の夕方、討伐隊は八ノ沢カール付近でヒグマを発見すると、ハンター10人の一斉射撃により駆除した。
結末
最初の襲撃時にはぐれた人物はしばらく生存しており、鳥取大パーティの残したテントに潜み、たった1人で夜を過ごす孤独と恐怖に耐えながら、以下の手記を残した。
この手記を書き上げた後、早朝にヒグマの襲撃を受けて死亡した。
結局、この事件により計3名が熊害にて命を落としたことになる。
野生動物研究家の木村盛武は、この事件においてワンゲル部の誤った判断について以下の点を挙げている。
- ヒグマが漁ったザックを取り返すべきではなかった。これによりヒグマから敵として認識されてしまった。また、ヒグマはとても執着心が強い動物なので、自分の所有物は必ず取り返しに来る習性がある。
- ヒグマに遭遇した時点ですぐに避難するべきであった。しかし彼らは登山を続行しようとした。これについてはリーダーの人物が兼ねてより計画していた登山の中止を嫌った可能性がある。
- ヒグマは背中を向けて逃げる生き物を本能的に追いかける習性がある。例え怖くとも、背後を見せた状態で逃走するべきではなかった。
- 福岡大学は九州に位置する為、北海道に生息するヒグマの生態に詳しい者がいなかった。事前に調査していればまだ被害は防げたかもしれない。
- パーティは濃霧が発生したことで、ヒグマの行動が制限されると考えていた。しかしヒグマは濃霧の中でも活発に動き回り、一行を襲った。
山小屋OL殺人事件
経緯
1983年、OLの今井忍さん(22)は山梨県の瑞牆山にてソロ登山を楽しんでいた。
9月3日に出発し山の中腹の富士見平小屋で一泊。翌日の4日に帰宅する予定だったが、いつまでも戻って来ない娘を心配して、両親が警察に捜索願を出す。
当初、警察は遭難か自殺であると考えたが、他の登山客から『女性の叫び声のようなものを聞いた』という証言を受け、事件性アリと見て捜査を開始。
それから約2週間後の9月19日、警察は富士見平小屋近くの雑木林から、今井忍さんの腐乱した遺体を発見する。
事故と他殺の両面から捜索した警察は、やがて富士見平小屋管理人の大柴勉(50)を容疑者として逮捕した。
事件の詳細
大柴勉は以前から人間性を疑われている人物であった。
事件の起こる4年前にも女性2人が近辺で失踪しており、後ほど白骨死体で発見されている。(大柴の関係性が強く疑われたが、結局この件は立証出来なかった)
登山客の中には小屋で大柴に乱暴されそうになったと証言する者もおり、地元の人間は若い女性に対して、富士見平小屋には宿泊しないようアドバイスしていた。
大柴は当初、『夜中に若い男が今井さんを呼びに来て、一緒に出て行った』と証言するが、態度が落ち着かず、今井さんが宿泊した日に限り宿泊名簿をつけていなかったことを不審に思い、警察は厳しく追及。
その結果、大柴はついに観念し罪を認めた。
大柴の自供によると、夜中にトイレに出た今井さんに対し乱暴しようとしたものの、激しく抵抗されてつかみ合いになり、坂道でシャツの襟を強く引っ張った為に窒息死させてしまった。
事故死に見せかける為、100メートルほど離れた窪地に遺体を遺棄し、衣類やリュックは焼却したとのことだった。
結末
殺人事件として起訴された後、裁判長は『山小屋の管理人としての立場を忘れた悪質な犯行だ。暗い山中で信じていた管理人に乱暴され、死後二週間も放置され変わり果てた姿で発見された被害者の恐怖、無念は察しても余りある。大柴被告に改しゅんの情はみられず、事件が山岳関係者や社会に与えた衝撃も大きい』と述べ、懲役12年を言い渡した。
大柴は刑期を終え1997年に63歳で出所。もし現在も生きているなら91歳となっているはずである。
なお、余談ではあるが富士見平小屋は事件前より評判が悪く、大柴が逮捕された後は一定期間の休業を経て別の管理人が就任したが、やはり評判は思わしくなかった。態度が横柄であり、登山客に平気で怒鳴るなど。まさに呪われているかのような山荘であった。
しかし2011年、過去に富士見平小屋でアルバイトをしていた男性が『なんとか富士見平小屋の評判を取り戻したい』という情熱を元に管理人に就任してからは、その熱意が宿泊客にも認められ、人気は徐々に回復。
現在は評判の良い山小屋として経営されており、過去の事件を知る者は少ない。
個人的にはディアストロフ峠事件が一番不気味なんだわさ
最近のコメント