【追悼】エリザベス女王の生涯を追う
イギリス王室は現地時間の9月8日、エリザベス女王が亡くなったと発表しました。96歳でした。ここに深く哀悼の意を表します。
今回は追悼記事ということで、エリザベス女王の辿った激動の人生、生涯、その功績などをまとめたいと思います。
プロフィール
通称 | エリザベス2世 |
本名 | エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・オブ・ウィンザー |
生年月日 | 1926年4月21日 |
在位期間 | 1952年2月6日~2022年9月8日(約70年間) |
父親 | ジョージ6世(最後のインド皇帝) |
母親 | エリザベス・ボーズ=ライアン |
配偶者 | エディンバラ公爵フィリップ |
子 | チャールズ3世 アン アンドルー エドワード |
ロンドンにて生まれる
エリザベス女王が生まれたのは1926年。今の時代からすると信じられませんが、インドを始めイギリスが植民地として多数の国を支配しており、大英帝国として隆盛を誇っていた頃。地球上の4分の1の人口をイギリスが統治していたとも言われる時代です。
ちょうどこの頃は第一次世界大戦の影響もありイギリスは少しづつ勢力を縮小し始めていたのですが、世界大国だったアメリカ、そして日本(当時は韓国や台湾まで日本の支配下だった)と海の覇権をかけてにらみ合っていました。
そんな大国に生まれたエリザベス。ご出産は帝王切開で第一子。驚くことに、この出産は人工授精だったと言われています。王族が人工授精というのはバツが悪い(当時の価値観では)のであまり報道されませんでしたが、父親のヨーク公は元々虚弱体質。当時最先端の技術である人工授精を使ってやっと跡取りを作ることが出来たというワケです。
エリザベスは生まれてすぐバッキンガム宮殿の礼拝堂で洗礼を受けます。これは厳粛なキリスト教国であるイギリスなら一般人もそうですね。
ここでエリザベスは初めて、『エリザベス・アレキサンドラ・メアリ』と命名されるのですが、ヨーク公はこの名について、父・ジョージ5世に許可を求めるお伺いの手紙を書かなければなりませんでした。
エリザベスはエリザベス1世、アレキサンドラはエドワード7世妃、メアリはジョージ5世妃と、いずれも偉大なる英国王族女性の名を取ってつなげたものだからです。
これについてジョージ5世は『可愛い名前だからいいと思う』と返事をしたそうです。そんなユルい感じでいいんだろうか。なんとも大らか、さすが王。孫が生まれてよっぽど嬉しかったんでしょうね。
しかしこの時、まさか25年後にこの女の子が女王になるとは誰も想像できなかったことでしょう。当時はまだ『1701年王位継承法』という法律があって、日本の天皇と同じように男子が王位継承権を優先されていたからです。
パパが王様になっちゃった!?
1936年1月20日、エリザベスの祖父であるジョージ5世が崩御しました。それと同時に、ジョージ5世の長男、エリザベスから見れば叔父であったエドワード8世が国王として即位することになります。
しかしこのエドワード王というのがなかなかトガった性格のお方。ヒトラーを始めとしたナチス・ドイツに対して親近感を持っていただけでなく、なんとバツイチのアメリカ人女性、しかも人妻を好きになってしまいました。
人妻の名前はウォリス・シンプソン。気さくな性格で博識、そして自由奔放なウォリスは、国王であったエドワード8世には大変魅力的に見えたのでした。
エドワード王は元々人妻好きで、かなり強引な面もありました。そもそも国王が人妻と不倫というだけで大問題なのに、首相が出ているパーティの場でウォリスの夫に対し『さっさと離婚しろ』と暴行を加えるシーンもありました。
これについてほとほと手を焼いた首相は意を決して国王に退位を迫ります。このままでは王権はおろか、王政の仕組み自体が国民にとって批判のマトとなってしまうからです。エドワード王はこれを受け入れ、即位してからわずか325日で国王の座から退くことになります。
そこでお鉢が回ってきたのがエリザベス2世のパパであるヨーク公ジョージ6世。彼が次の国王になります。
吃音で虚弱体質だったジョージ王は本当に苦労した人でした。1936年に即位した後、イギリスの国力が低下すると共に第二次世界大戦が勃発。アジアやアフリカのイギリス領が少しづつ解体されていき、ポーランド問題をめぐってナチス・ドイツと対立することになります。
それでも彼は、首相と連携して自国民を励まし続けました。やがて、健康を損なったジョージ6世は56歳という若さで、ほぼ終戦と同時にこの世を去っています。
彼の活躍は2011年に作られた映画『英国王のスピーチ』を見るとよくわかりますよ。
訪れた平和と幸せな結婚
第二次世界大戦が終わり、イギリスには平和が訪れます。
この時、すでにエリザベス2世は国民から非常に高い人気を得ていました。それは彼女の自己犠牲の精神がいかんなく発揮されていたことに由来します。
パフォーマンスと言われるとそれまでですが、彼女は第二次世界大戦中、"国民を守るため"に自ら軍服を着て大型トラックの免許を取り、18歳という若さで弾薬管理や車両整備に従事する姿がたびたびテレビで報道されていました。王女様のくせになかなかアグレッシブです。
それまで女性の王族というのは『お飾り』の側面が強かったのですが、彼女は慣例を打ち破り、一般学生と共に軍事訓練を受け、まさに『国民の為に自分を犠牲にできる人間』という英雄的資質を、国民にイヤというほど見せつけていたのです。
エリザベス王女は1947年、21歳にて以下のような名言を残しています。まさに彼女の精神を体現する一言と言っていいでしょう。
「私は、私の全生涯を、たとえそれが長かろうと短かろうと、あなた方と我々の全てが属するところの偉大な、威厳ある国家に捧げる決意であることを、あなた方の前に宣言いたします。」
(I declare before you all that my whole life whether it be long or short shall be devoted to your service and the service of our great imperial family to which we all belong.)
そして同年、彼女は海軍大尉であったフィリップと結婚をします。フィリップの姉はナチスドイツとゆかりがあるドイツ系貴族と結婚していた為、当初王室は懸念を示していましたが、最終的には折れる格好になりました。
戦後初めての慶事に世界中が湧きたち、それはそれは幸せな結婚式だったそうです。(でもいわく付きの叔父であるエドワード8世は呼ばれませんでしたとさ)
エルデのイギリスの王とおなりなさい
父王ジョージ6世が早逝すると、エリザベス2世はついに王位を継承し、27歳にしてイギリスの女王となります。
当時、イギリスの法律は男だろうと女だろうと直系を優先。エリザベス2世に弟がいればそっちが王様でしたが、妹しかいなかったのでエリザベス2世が第一継承権を持ち、女王となったのです。
戴冠式はウェストミンスター寺院で行われ、この時日本からも皇太子明仁親王(後の平成の天皇)が出席されています。
しかしこの時、皇太子の扱いはかなり冷遇されたものだったそうです。席次は17番目でかなり後ろの方。オマケに待合室で3時間待たされる始末。これは今の時代ではありえないことです。
日本の天皇家というのは血が一度も絶えていない為、世界的・歴史的に見て格式はかなり上なのですが、何せ当時は第二次世界大戦の直後。日本は連合国にとって『悪の帝国』という扱いでしたから、まぁ仕方のないことだったと言えるでしょう。
しかしここでエリザベス2世の暖かさを感じるエピソードが一つ。
戴冠式から4日後、ロンドン近郊エプソム競馬場での出来事。女王と皇太子は別々のスタンドで競馬を観戦していましたが、女王から『よろしければ女王専用のスタンドで一緒に観戦しませんか』とお誘いがあったそうです。
『悪の帝国』のレッテルを貼られ心苦しく感じている中の訪英で、しかも皇太子はまだ19歳でありました。少なからず不安もあったことでしょう。そんな中での女王からの"お誘い"は大変嬉しかったに違いありません。
皇太子は帰国後の同年10月16日の記者会見で女王の印象を問われた際に、以下のように答えてます。
「エリザベス女王とは、公式会見と競馬場で二回ゆっくり話したが、実に温かく、フレンドリーな方と思いました」
ただの人情なのか、それとも国際関係まで考えていたのか、どのへんまで考えての行動だったかわかりませんが、世界の要人のハートをつかむ、エリザベス2世の才覚が発揮されたエピソードだと言えるでしょう。
『開かれた王室』の推進
エリザベス女王はかなり近代的な考えを持ち合わせている人物でした。
当時、叔父であるエドワード先王がやらかしたのを契機に『王室不要論』が度々イギリス内で取り沙汰されていたことを受け、女王は王室の様子を国民に積極的に公開し、その暮らしぶりを赤裸々に公表することにしたのです。
1957年には英国史上初めてテレビでクリスマス・スピーチを行い、戦後復興の象徴として国民に明るい笑顔を届けました。また、1969年には女王の暮らしに密着したBBCドキュメンタリー『ロイヤル・ファミリー』の放映が始まり、これはイギリスはおろかアメリカでも非常に高い視聴率を得ます。
このドキュメンタリーを通じてエリザベス女王は、『女王も一人の人間である』ということを国民に訴えたかったのではないかと思います。
こうした活動を受けて、それまで『何をしているかよくわからない人たち』という印象があった王室のイメージを払しょくし、国民の理解を得たことは賞賛に値するでしょう。
活動は現在も根付いており、SNSが進化した現代では、ツイッター上で積極的に公務の内容を報告するなどしています。
敗戦国との関係改善
エリザベス女王は第二次世界大戦の敗戦国(イタリア、ドイツ、日本)との関係改善にもまい進した人でした。
当時、この三か国は『悪の枢軸国』ですから世界中から領土を取り上げられたり賠償金を支払わされたり踏んだり蹴ったりでした。勝てば官軍、負ければ賊軍とはよく言ったものです。
女王はまず、1958年にイタリアとドイツの大統領を招き歓待しました。更に1961年には女王自らがイタリアへ赴き、答礼訪問することで大きく関係が改善されます。国民感情を考慮してやや遅延しましたが、1965年にはドイツへも訪問し、お互いのわだかまりを解消するよう努めています。
日本に対しては女王の従妹であるアレクサンドラ王女を赴かせました。これにより関係改善が活発化し、1971年には昭和天皇をイギリスへ招き、双方の和解を国際社会に強く印象付かせました。エリザベス女王は昭和天皇と立憲君主制の在り方について対話し、大きく影響を受けたとされます。
この和解は単なる仲良しこよしのアピールというだけでなく、高度経済成長により急成長する日本に近づくという意図もあったようです。さすが女王、政治面でも抜け目のない人ですね。
アパルトヘイトの廃止
当時、イギリスはアフリカ大陸に広大な植民地を所持していました。もはや社会の教科書でちょっと学ぶくらいですが、黒人は白人に支配され、強烈な差別を受けていました。それがアパルトヘイトです。例えば海辺に『この海水浴場は白人専用』って書かれた看板が立ってたりね。
その中で特に差別がひどかったのが、イギリス領だった南ローデシア。27万人のイギリス系白人移民が620万人のアフリカ人を抑圧・支配しているという状態でした。
これを憂慮していた女王はアパルトヘイト問題を終結させるよう努力していましたが、イギリス初の女性首相であるマーガレット・サッチャーはあまりこの件に関心を寄せていませんでした。フォークランド紛争の件もあるし黒人めんどくせえなくらいのノリだったんでしょう。
しかしある時、自治区の黒人首脳らと会食した折、一人部屋の隅にたたずんでいたサッチャーを、昔からの知り合いである黒人首脳たちが談笑する場に連れ出し、両者の間を取り持ったのが、ほかならぬエリザベス女王でした。
サッチャーはこれを契機に南ローデシア問題の深刻さを認識し、翌日から人が変わったように解決へ向けて取り組み始めました。この活動がやがて、初めて黒人の参政権を認めたジンバブエの独立へとつながっていきます。
女王様が要らんとな!?
国際社会は段々人種差別をなくし、全ての人間を平等に扱おうという意思が強まってきました。
その流れを汲み、イギリス統治下でアジア系移民が増加していたオーストラリアでは1999年に国民投票が行われ、共和制の導入、つまり君主制を廃して女王の統治ではなく、より民主的な統治を行うべきか問われる事態が発生しました。
結果的には僅差で君主制存続が決まり、引き続き女王の統治を受けることになりましたが、女王は自分の責務を淡々とこなし、数十回もオーストラリアを訪れています。
この時女王は250以上の公務をこなし、70もの市町村を周り、自動車で207回、飛行機で33回の移動を行いました。当時のオーストラリア国民のうち、女王夫妻を一度は見たという国民は、実に75%(600万~700万人)にも達していたとされます。
この歴代国王にもこなせない激務を女王は引き受け、オーストラリアの国民感情を落ち着かせることに大いに貢献しました。
晩年
2010年代に差し掛かる頃には90歳を迎え、女王は公務の一部を息子であるチャールズに委ねていましたが、それでも精力的に公務をこなしていました。もうとっくに隠居していい年齢なのに、すごい体力です。まさに『国民の為に人生を捧げる』という信条を体現していたと言っていいでしょう。
2012年のロンドンオリンピックでは開会式にジェームズ・ボンド(ダニエル・グレイグ)と共演するなどお茶目な様子も見せていたエリザベス女王。2018年には『エリザベス女王英国デザイン賞』を創設して、若手デザイナーの育成を支援するなど、新しいアイデアも続々実施します。
しかし、2021年には夫であるエディンバラ公フィリップが逝去し、その後体調が急激に悪化。その翌年の2022年9月8日、夫の後を追うようにバルモラル城にて崩御します。96歳でした。
このニュースはまたたくまに報道され、およそ1600万人のイギリス人が視聴し、深い悲しみに哀悼の意を示したそうです。まさに歴史の生き証人である偉人が一人、天国へと旅立った瞬間でした。
『女王』と呼ぶにふさわしい偉人だったんだわさ!
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