『ルッキズム』という抽象的な概念について

昨今、やたらとルッキズムとかLGBTという言葉を聞くようになりました。ルッキズムとは端的に言うと外見による差別。LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字を取った言葉で、要は性的少数派を指す言葉です。

私はこのような概念にはどちらかと言えば否定的です。何故かと言えばそれは人にとって意味が変わってくるようなあいまいな概念だと感じるからです。

ルッキズムの原点

そもそもこのように『人を見た目で差別するのは良くない』という風潮はどこで生まれて来たのでしょうか。原因は様々でしょうが最も根強いのは黒人を長らく奴隷として使役してきたアメリカの歴史が背景にあるような気がします。

アメリカでは1960年代後半、『ファットアクセプタンス運動』という太った人たちによる差別反対運動が始まりました。この活動の中心は主に女性で、ある種のフェミニスト運動とも言えます。彼女らは太っていることが原因で外見から差別されたり、仕事の生産性を低下させるという扱いに抗議したのです。『ルッキズム』という言葉が使われたのはこの運動が初めてでした。要はデブを受け入れろ!という運動ですね。

また少し時代を遡れば、1867年から1974年の間、アメリカの一部の都市では『醜陀法』と呼ばれる法律がありました。これは『見た目が醜い人は外を出歩いてはいけない』という、今考えるととんでもない法律です。まぁこれは単純に外見で人を判断している訳ではなく、増加するホームレス対策の法律だったんですが、現代では考えられませんね。見た目が醜い、というのは顔がイケてるかどうかという点だけでなく、生まれつき身体に障害がある人や手足を失った人なども対象に入りました。

上記は一例ですが、アメリカでは見た目による差別が公然と行われて来た歴史があります。特に黒人差別の歴史については言うまでもないでしょう。

『オックスフォード英語辞典(Oxford EnglishDictionary)』と『アメリカン・ヘリテージ英語辞典(American Heritage Dictionary of the EnglishLanguage)』は、2000年以降に発行された版に“lookism”という単語を含めている。いずれの辞書においても、「ルッキズム」は「外見にもとづく差別または偏見」と定義されている。

引用元:「ルッキズム」概念の検討(西倉実季:2020)

日本への影響

日本でも外見による差別は、アメリカほどではありませんが公然とされている背景がありました。日本でこの『ルッキズム』という言葉が流行り始めたのは、モデルの水原希子によるインスタグラムへの投稿が発端でしょう。

彼女は『世界で最も美しい顔100人』という企画に勝手にノミネートされ、「自分が知らない間にルッキズム╱外見主義の助長に加わってしまっているかもしれないと思うと困る」、「見た目で人を判断するのは絶対違うと思うし、そもそも一番美しい人なんて選ぶ事は不可能」、「このランキングによって偏った美の概念やステレオタイプな考えを広めて欲しくない」と遺憾の意を示し、大きな反響を呼びました。

このような時流を受けて、例えば上智大、法政大、国際基督教大などではミス・コンテスト、すなわちミスコンの開催を中止。最近では就職の際に提出する履歴書から顔写真の添付をやめようという声も上がっています。

ルッキズムの限界

ここから少し既成のルッキズムに対する批判になりますが、ルッキズムが一番分かりやすく理解出来るのは職場での影響だと思います。例えば、以下の例を見て『どこからどこまでがOKか』を考えてみて下さい。

  • Aさんは警察官に就職したかったが、身長制限に引っ掛かり、3センチ足りなかったのでなれなかった。
  • BさんはTVアナウンサーに就職したかったが、生まれつきアトピーがひどく、『清潔感がない』という理由で試験に落とされてしまった。
  • Cさんは競馬の騎手になりたかったが、体重が重すぎて馬に負担をかけるという理由で騎手にはなれなかった。
  • Dさんは電車の車掌になりたかったが、生まれつき弱視で列車の安全管理が困難という理由でなれなかった。
  • Eさんは宇宙飛行士になりたかったが、体格が大きすぎてロケットのコックピットに収まらず、危険という理由でなれなかった。

恐らく『全部OK』または『全部ダメ』という意見は無くて、『これはわかるけどこれはダメなんじゃないかな』といった感想に収まるんじゃないでしょうか。

本来外見という要素が関係ない局面でも外見が評価基準に入ってしまう問題を『イレレヴァント論』と呼びますが、これはなかなか基準を設けるのが難しい問題だと思います。

例えばBさんのケースですが、アナウンサーの職務は情報をお茶の間に分かりやすく届けることですから、本来外見というのは関係ない問題です。就職条件にも『ブス/ブサイクお断り』とはもちろん記載されていません。しかし実際はカメラ審査がありますし、テレビに出て来るのはイケメンと美女ばっかりです。

テレビ朝日の女子アナウンサーたち。

ここで難しいのがルッキズム、引いてはイレレヴァント論の限界です。もちろんアナウンサーの仕事は主にニュースの内容を読み上げることですが、実際問題として見た目が酷かったら視聴率が下がり、スポンサーも出資しにくくなり、結果としてテレビ局の売上が下がります。そう考えると『アナウンサーの職務に外見は関係ない』とは断言しにくくなって来ます。

何が言いたいかというとこのように反論の余地を残した状態、言い換えれば程度問題で『人を外見で差別するのは良くない』と一口に言葉にするのは難しいんじゃないかな、という個人的な意見です。

そもそも人間は生得的に外見で差別をする

実践女子大学の作田由衣子専任講師らの研究グループは、中央大学、日本女子大学との共同研究で、生後6~8カ月の乳幼児44名に対し、『信頼感の高い顔』と『信頼感の低い顔』を合成CGで作成したものを見せ、どちらを注視するか実験を行いました。

CGはプリンストン大学のアレクサンダー・トドロフ教授が作成。

結果は『信頼されやすい顔』が長く注視される結果となり、社会的経験のない赤ん坊でも見た目で人を判断しているということが明らかになったのです。別の研究では人間だけでなく、猫などの動物でも同じ結果が得られたそうです。このように内面でなく外見で物事を判断する機能は『良い遺伝子仮説』と呼ばれ、しばしば進化心理学で議論されて来ました。

全ての生物にはオスメスに限らず自分の遺伝子を未来に残そうとする本能があります。それについては当然ながら有性生殖である限りパートナーが必要です。そのパートナーを選択するにあたり重要視されるのが、相手が健康そうかそうでないかという部分です。

この研究によれば、左右のバランスが取れている顔ほど人は美しいと感じる傾向があると提議されています。顔の対称性が崩れるのは、栄養不良や感染症、遺伝子変異などによって成長中に生じる問題のせいであり、したがって顔の対称性の度合いは、その人の健康状態や回復力の指標、すなわち環境や遺伝上の問題への対応力を示すものです。故に、人間は本能的に"美しい顔"を好むのです。

ガリガリにやせ細っている人や極度に太っているような病質的外見の人、身体が小さい男性が好まれないのも、同じような理由からです。

行き過ぎたルッキズムによる逆差別

『逆差別』という言葉を聞いたことがあるでしょうか。一言で言えば、行き過ぎた是正措置や差別の撤廃によって起きてしまう別の差別のことです。

例えば身近なもので言えば女性専用車両。あれは女性が痴漢に遭わないよう安心して電車に乗れる為、女性の人権を守る位置づけの制度ですが、(少しひねくれているかもしれませんが)この電車には男性は乗れませんよ、という意味では別の差別であると考えることも出来ます。

他にもアメリカの大学では黒人優先の入試枠を設けて本来入学出来る白人の数を減らし、『人種間の平等』を謳っているケースなんかもあります。

このようなケースは色んな局面で起きています。例えば、アメリカのコネチカット州に住むセリーナ・ソウルさんは、8歳の時から陸上競技をはじめ、家族やコーチの支えを受けながら鍛え上げ、2018年には高校女子陸上競技大会のトップ5に入るほどの実力をみせました。

しかし、彼女は州の選手権では勝つことは出来ませんでした。トランスジェンダーである元男性の選手が2名出場し、それぞれ1位と2位を獲得したからです。この2人は他にも15種目でタイトルを獲得しました。まさに無双状態というヤツです。

男性がホルモン治療や性適合手術などで女性になっても体格や筋肉量はそれほど下がりませんが、女性が男性になっても身長が伸びたりすることはありません。東京オリンピックでも元男性の選手が重量上げに出場し様々な物議を醸したことは記憶に新しいですね。

元男性の選手が女子世界新記録を更新しまくっているのがスポーツ界の現状。

ポリティカル・コレクトネス、通称ポリコレ問題とか言われますが、テレビゲームなんかにもこういった逆差別の余波は及んでいます。あんまり美人過ぎるヒロインを登場させるとフェミニスト団体から『女性に対する差別だ!性の搾取だ!』とバッシングを受けてしまうんですね。この影響で最近のゲーム、特に洋ゲーはヒロインがおばさんになったり、微妙にブスになったりと色んな影響を受けてます。

大人気ゲーム『ホライゾン ゼロ・ドーン』のヒロイン。左が一作目で右が二作目。

ただ私は『それって美人に対する差別なんじゃないの?』って思うんですよね。

まとめ・私が思うこと

韓国では美人の方が就職に有利というのは周知の事実であり、女性の実に20%以上が就職前に整形をする『リクルート整形』なるものが流行っているらしいです。

そんなのは行き過ぎた例でとても認められたものではないですが、私はルッキズムというのは実に抽象的で問題の焦点が曖昧な議論に終始していると思うのです。

例えばミスコン中止の件を例に挙げれば、学生の代表として大学の広告塔となる女性が美人でなくても本当にいいんでしょうか。それはイレレヴァント論であると言えるものでしょうか。大学側の利益とは真に無関係であると断ずることが出来るのでしょうか。

ルッキズムによって不当に抑圧される人は誰で、有利に働く人はどのような人々なのか。そういった研究が十分にされないまま、ケースバイケース、乱暴に言えば行き当たりばったりで『見た目で差別をするな』と声高に、耳に座りの良い言葉を並べて社会正義を謳うことについて、私は疑問を感じてしまうのです。

ゲームの中でくらいイケメン美人揃いでもいいじゃない