戦争を無くすことは出来ないのだろうか
ロシアがウクライナに侵攻して約二週間が経過しました。ウクライナの発表では、少なくとも子ども27人を含む市民406人が犠牲になっているそうです。
一方、ロシア側の被害も甚大で、欧米(日本含む)が強力に経済制裁を行っている影響で資産価値と経済信用力が地に落ち、お金が紙くず同然になってしまうという事態が起きています。
このように悲惨な結果しか生まない戦争を人類はやめることが出来ないのか?
今日はちょっとその辺を考えてみました。
戦争は必然なのか?
人は闘争を求める
人類の歴史は戦争の歴史です。人種、土地、宗教…様々な背景を理由に人類は戦争を続けています。細かい紛争なども含めれば有史以来、世界平和が実現したことは一度もありません。
400年前の哲学者でトマス・ホッブズという人がいます。彼は初めて『自然状態』というものを定義しました。ここで言う自然状態とは、政府や法律が存在しない状態のことを言います。
能力の平等は希望の平等を導く。希望の平等は、その対象が稀少であれば、それをめぐる相互不信を導く。相互不信においては、相手に倒されないためには、何らかの力をもって相手を制圧する以外にはない。自分にそうした力があることを認識していれば、人びとは互いに制圧しようとする動機をもつ。このようにして「万人の万人に対する闘争」に至るのだ。
トマス・ホッブズ 『リヴァイアサン』より
分かりやすく言えば、人類それぞれの精神は平等なものであり、動物と違って将来を予見する能力があります。動物は何か脅威に晒された時に自己保存の本能に従って闘争しますが、人類は将来を予見出来る為、常に資源などの奪い合いをすることで自己保存が有利に運ぶように達成し続けようとします。
すなわち、人々が闘争している状態こそが自然なのだと提唱したのです。この闘争というのは実際に殴り合ったり殺し合ったりするだけでなく、心の奥底にそういう欲望が渦巻いている状態も含めてのことです。
これを踏まえた上でホッブズは、他人を攻撃することは自然権であるが同時に他者からの攻撃を受けることも許容することになり矛盾が生じる為、自分の自然権を一人の主権者に委ね、国家理性に頼り各自の自然権は抑制されると提唱しました。
また、進化心理学の面で言えば男性はそもそも攻撃的な性質を持っていると言います。男ガーとか女ガーとか言うと性差別主義者みたいになっちゃいますけど、それは古今東西様々な研究で明らかになっている事実です。
- 男性は女性より肉体的な攻撃に従事し,その攻撃の対象となる(Eagly & Steffen, 1986)
- 攻撃行動は繁殖行動がピークとなる18~30 歳頃に最も男女差が顕著になる(Archer, 2004)
- 暴力が関わる犯罪に従事するのは主に男性である(Daly & Wilson, 1990,Wilson & Daily, 1993)
では何故、男性は攻撃的な性質を持つのでしょうか。
性淘汰と育児投資の理論(Darwin, 1871;Trivers,1972)によれば、それは性戦略の違いにあります。女性は子供を身ごもると長い時間をかけて出産しますが、男性は平たく言えば自分の遺伝子をばら撒くことが可能です。
つまり、自分の遺伝子をより多く残す為に、メスを奪い合う必要が出てくるワケです。そう考えると男性に攻撃的な本能が備わっていることは合理的だと思えます。
それでは、人類、特に男性が闘争を求め戦争をおっぱじめるのは必然なのでしょうか。カントの名言のように、平和こそが不自然な状態なんでしょうか。
闘争を求める人の図。
引用元:https://jumpmatome2ch.net/archives/47716.html
戦争は回避出来る?
ハーバード大学政治学部教授のスタンリー・ホフマンはこれについて異を唱えました。それは戦争が孕んでいる矛盾点です。
人類の歴史を見ると確かに戦争が勃発するのは不可避なように思えますが、それらの原因全てが『人類の本能だから』とするのではあまりに一般的過ぎると述べました。また、ミニマムな観点で言えば一つ一つの戦争は回避可能な余地を残しているからです。
例えば今回のロシア侵攻についても、ウクライナ側は全面降伏するという手段を取れたはずです。それによってロシアの属国になり主権が失われるのは予想に難くないですが、少なくとも民間人が死亡するような事態は回避出来たことでしょう。多分ね。多分。
ホフマンは『人類は必然性の奴隷なのか?』それとも『自由の女神の気まぐれに踊らされているのか?』といった問いかけをいくつか行い、最終的に戦争が起きる要因を突き止めるのは難しいとしました。
なんじゃそりゃと思うかもしれませんが、古来の原始的な戦争と現代の戦争では動因が直線的ではないし、部分的にはパターン分けすることが出来るかもしれないが、それを歴史全体に当てはめると袋小路に陥ってしまうと考えたのです。
他にも昔、第一次世界大戦を経験したルイス・F・リチャードソンという物理学者がいて、戦争が起きるプロセスを数学的に解釈し予防に役立てようとしました。
大体の流れを説明するとリチャードソンは戦争が起きるプロセスを、『とある国が相手方の脅威に対抗する為軍備拡張を行う。すると他方もそれに対して優位に立つ為に軍備拡張を続け、両者の軍事費は膨れ上がっていく。お互いの国は疲弊してどんどん不満が高まっていき、やがて戦争が起きる』と考えました。
これは国際関係に数学的プロセスを持ち込んだ初の例として、後の紛争解決に大きな影響を与えましたが、結局のところは様々な矛盾点が見つかり失敗しています。(例えば最初から軍備ゼロの国同士ではどーなるの?みたいな)
闘争を回避しようとする蟲の図。
引用元:https://matome.usachannel.info/?p=194701
結論としては
結論としてはわっかりませんねコレ。まぁ先人がいくら考えてもわからなかったことが私ごときにわかるはずもなし。
ただ、戦争って2つのパターンに分けられると思うのです。一つは何かを奪うということ、もう一つはそれから身を守るということ。『奪う戦争』は大体↓のような感じで、それから身を守る戦争というのがもう一つの別解。
戦争の性質 | 奪うもの |
侵略戦争 | 土地、財産 |
民族浄化(ジェノサイド)、復讐の為の戦争 | 命 |
宗教戦争 | 宗教の自由 |
何かを防衛する戦争というのは、大抵の場合は相手の戦力を"奪う"為に殺人が犯されることになりますが、それは副次的な産物であって目的ではないですからね。例えばWW2のポーランドはドイツと戦争をしましたが、ドイツが国境を一歩も越えなければ何も"奪う"必要はなかったのです。
ここで思うのは、国や宗教組織などの共同体が2つ以上存在して戦争は成り立っているということです。うんまあ何かスゴイ当たり前なこと言ってる気もしますけど、自然権の主権を託す対象が世界に一つだけならば戦争が起きない社会を達成出来るのではないでしょうか。
新潟県立大学国際地域学部教授の黒田俊郎は、以下のように述べています。
国際的な自然状態において暴力は、ルソーが眼前にある「現実の社会」のなかに見いだすのと同様に、市民社会の直接の帰結である。あるいはより正確に述ベれぱ、市民社会が複数並立して存在していることの結果である。
国際的自然状態における暴力とは、人類全体を包含する一般社会の不在という意味では非社会的・反社会的なのであるが、他方で国際システムを構成する個々の単位である諸国家にとっては、暴力は、その国境線の内側に存在する市民社会の安全を保障し、その利益を促進するために利用することのできる手段のひとつ、国家の政治指導者が計算と政策立案をおこなう際、考慮に入れる要素のひとつである。
そのかぎりにおいて、国際的自然状態下での暴力は社会的なものなのである。
国際関係の専門家にとって、戦争の意味は、国際的な競合ないし対立関係それ自体の意味と密接不可分である。
国際システムを構成する諸単位=諸国家が対立・競合することには明確な意味があり、それ独自の論理がある。それは、敵対的で対抗的な軍事外交政策に反映される諸国家の利害化野心)を駆動因とする相剋の論理である。
クラウゼヴィッッが理解していたように、それはまた戦争の論理でもある。国際的な競合ないし対立関係の意味がかくの如くである以上、戦争にも「意味」があることには疑問の余地がない。
引用元;響きと怒り:スタンレー・ホフマンの戦争論(2011)
つまり、複数の社会が並び立つ状態においては、暴力、取り分け戦争は有効な外交手段になり得る為に起きるということです。つまり、だからこそ社会が全て一つに統一されれば良いのではないでしょうか。
いくら一つの主権者のもとにあれど小さい家庭の親子同士ですらケンカはするんですから、小規模の戦闘やごく狭い範囲での諍いは起きるかもしれませんが、少なくとも核戦争のような事態は発生しないのではないかと思います。
ただ実際には世界をどこかの主権が握る、つまり世界征服を達成するのは不可能だと思いますし、もしそうなっても征服者にすべての人間が自然権を委ねることはないかなぁとは思います。つまり強力に抑え込まない限り、クーデターや革命が発生する可能性を残すということです。
SF映画みたいに完璧なAIを持つマザーコンピューターが世界に一台あって、すべての人間が生まれながらにしてそれに忠誠を誓うようプログラムされているとすれば、戦争は起きないかもしれません。
引用元;https://book.asahi.com/article/11601869
ちょっと話がぶっ飛んできた!よくわからなくなってきたのでこの辺で。
おやすみなさいだわさ
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