宝くじより現実的!?日本に眠る金銀財宝

日本で銀行制度が確立したのは明治時代以降のことです。それ以前のお金の保管方法と言えば、自宅の蔵にしまっておくのが一般的でした。『ねずみ小僧』が蔵から千両箱を盗み出すシーンを思い浮かべればピンと来るでしょう。

またそれと別に、お金を土に埋めておくという方法も度々とられました。何らかの事情でお金を目立つ場所に保管しておくことが出来ず、隠しておく必要があった場合ですね。鬼平犯科帳なんか読むとよく盗賊が奪った金を土中に埋めておくシーンが出てきます。まぁ大抵は誰かに奪われるんですけど。千両の重さは大体18キロとされているので、大金を持ち運ぶのも容易ではなかったんですね。

日本では戦後、このような埋蔵金が見つかったケースが約50件も報告されています。そこで今日は、一攫千金を狙うトレジャーハンターの皆さん(いるのか?)の為に、有力なお宝情報をまとめてみました。なるべく現実的なものを厳選し、オカルトチックな伝説の類は除外してあります。徳川の埋蔵金とかね。

引用元;https://appget.com/c/special/177155/nosmith_1605-6/

ニール号の積み荷

1873年5月から11月、オーストリアのウィーンでは万国博覧会が催され、日本政府は開国後初めてこれに参加しました。日本の美術工芸品を世界に見せる為、浮世絵、漆器、仏像、陶磁器など多数を出品し、中には源頼朝が後白河法皇から賜り、頼朝の妻である北条政子が愛用した沃懸地籬菊螺鈿蒔絵手箱いかけじまがきにきくらでんえまきてばこという貴重な歴史的文化財も含まれていたそうです。

博覧会が無事に終わった後、これらの美術品と日本がウィーンで購入した品々は、フランスの貨客船ニール号に載って日本に戻ってくるはずでした。

しかし1874年3月、ニール号は日本に来る途中に暴風雨に逢い、伊豆半島の入間沖で沈没してしまいます。乗船していた90人のうち86人が死亡するという痛ましい事故でした。これは政府に報告され、当時フランスの新聞にも掲載された公式な記録です。現在もこの場所には慰霊塔が建てられています。

それから約130年後の2004年、考古学者を中心に『ニール号学術調査団』が結成され、現在に至るまで沈没船ニール号の継続調査が行われています。その結果、いくつかの遺物は引き上げられましたが、源頼朝の手箱を含む多数の品は依然として行方知れずになっているそうです。

つまり、静岡県の南の海にこれらのとんでもない『お宝』が未だに水没しているということです。皆さんも伊豆にスキューバダイビングをしに行く機会があったら、ついでに探してみてはいかがでしょう。

北条政子が愛用したという手箱。(これはレプリカ)

ロマノフ王朝の金塊

ロマノフ王朝というのは社会で習ったと思いますが、1613年から1918年の間にロシア帝国を支配していた王族です。当然ながら豪勢な暮らしをしており、500トンの金塊(約2兆円)と300万個以上の宝石を所持していました。しかし、ニコライ2世が蜂起した民衆に処刑されたことで、この財産の多くは行方知れずになったとされています。

日本は1904年に日露戦争を起こしています。この戦争はロシアの敗北とするか引き分けとするか見方が分かれていますが、少なくとも日本の敗北ではありません。また、ロシアの内戦時、日本はシベリアに出兵して皇帝側の味方(白軍)をしており、皇帝側の旗色が悪くなると万が一の為、ロマノフは日本の満州に一部の財産を移動させたそうです。これは日本側の史料にも残っています。このように、日本と旧ロシアはいくつかの関わりがあり、金塊を得るチャンスは何度かあったものと思われます。

そして時は経ち2020年、皆さんご存じのように日本の北方領土はロシアに実効支配されたままですが、日本からの返還要求に対し、ロシアがなんと『先にロマノフ王朝の金塊を返還せよ』と要求を出して来ました。交渉をグダつかせる為にでっち上げた話の可能性もありますが、日本はこれに対し『金塊は返還済みである』と回答しているのです。

つまり裏を返せば日本が『ロマノフ王朝の金塊を得たことがある』と認めている格好ですね。この部分について真に返還済みなのかどうかはロシアと見解が分かれたままです。重要な外交問題で生じた話なので、金塊の話が伝説の類では決してないことが分かります。

片や奪われたままだとし、片や返したと主張するロマノフ王朝の金塊。まるでマンガ『ゴールデンカムイ』のような話ですが、一体今、どこにあるんでしょうね?

ロマノフ王朝が使用していた馬車。黄金がふんだんに使われている。

草薙剣(形代)

平成から令和を経た皆さんなら、天皇の持つ『3種の神器』を聞いたことがあるでしょう。これは八咫鏡やたのかがみ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま、そして草薙剣くさなぎのつるぎの3つで、神々の時代から継承する、天皇の証とも言うべきアーティファクトです。草薙剣は別名天叢雲剣あまのむらくものつるぎとも言われ、スサノオがヤマタノオロチを退治した際、その尻尾から得た剣だと伝えられています。

なんだかファンタジーなハナシですが、宮中には実際にこれらを保管する部屋が存在しており、その前では天皇すらも頭を下げなくてはならないそうです。そしてこれらの継承がなくては天皇は天皇として認められません。令和になった際も実際に継承の儀が行われています。

しかし、これら3種の神器は一度失われたことがあります。それは1185年に行われた平家合戦・壇ノ浦の戦いでのこと。平家側に保護されていた安德あんとく天皇は源氏の猛攻に逢い、3種の神器を身に着けた祖母と共に入水自殺してしまったのです。これは古代の歴史書『吾妻鏡あづまかがみ』や『平家物語』に記録が残されている事実です。

「二位尼は宝剣を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する。」

引用元:吾妻鏡 壇ノ浦の戦いの元暦二年三月二十四日の条

古来より草薙剣の本体は今も昔も熱田神宮にて管理されているので、この時失われたのは天皇家に授けられた形代の剣(霊力を移したものとされている)ですが、3種の神器であることには変わりありません。もし見つければ個人として所有したり、ましてや売り払ったりなんてことは出来ないでしょうが、大きな名声を得られることでしょう。壇ノ浦は現在の山口県下関市ですので、山口に赴いた際にはフグでも食べながら探してみて下さい。

まとめ

以上、日本のお宝伝説でした。いかがでしたでしょうか。大体宝くじが当たる確率は0.000005%とされていますので、こっちの方が現実的なハナシではないでしょうか。夢がありますしね。

最近でも埋蔵金として、2002年に富士県小矢部市から時価総額3900万円の明治金貨が見つかったり、埼玉県長瀞町の排水管工事の際に大昔の小判が見つかったりしています。きっとまだまだ見つかってないお宝は日本中に存在することでしょう。

レッツ、トレジャーハンティング!